C・アラン・エイムズの場合Ⅰ
C・アラン・エイムズはカトリックの神秘家で、1993年に癒し、スピーチ、著作による宣教活動を始めましたが、その前に、天国からの訪問者と、個人的な「良心の照らし」による、非常にドラマチックな回心を経験しました。それ以来、主は彼を世界中に送り出し、主が与えた聖なる熱意と非凡なカリスマによって、何千人もの人々を癒し、また回心させました。アランは、時に目に見えることもある、隠れた聖痕の痛みによる受難に耐えています。現在彼には、20冊を超える著作があり、引き続き聖なる三位一体と聖人たちからのメッセージを受け取っています。彼の活動は、彼が住んでいるオーストラリア、パースの大司教からの完全な支持を得ています。
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1993年、40歳の頃、私はオーストラリアのパースにある製薬会社のセールスマンとして、しばしば各地に旅行していました。ある時私はアデレードという都市に出張し、いつもの単調なルーティンとして、あるホテルにチェックインし、その部屋でベッドに座ってテレビを観ていました。ふだんは相当酒を飲んでいたのですが、その時は一滴も飲んでいませんでした。なぜなら、仕事の日はアルコールを買わないことにしていたからです。夕方のニュースを観ていた時、突然目の前に恐ろしい形相の男が現れ、両腕を前に伸ばして私の首を絞め始めました。彼は暗い色の肌をし、目は飛び出て、唇がめくれてぞっとするような歯を剥き出していました。しかし私は、絞め殺されそうなことに気を取られていたので、彼の見た目を気にする余裕はありませんでした。私は合気道の世界大会でオーストラリアチームのキャプテンでしたから、なんとか彼を押し戻そうとしましたが、私の手は彼の体を通過してしまいました。何をしても、彼が私の首を絞めるのを止めることはできませんでした。数分の無駄な抵抗ののち、私の首の血管は破裂寸前になり、もうこれが最期と観念したのでした。
そのとき、私の頭の中ではっきりと聞こえる声が言いました。「主の祈りを唱えなさい!」それは私が最も考え付く可能性の低いことでしたが、死に物狂いで祈り始めると、首を絞めるのがぴたりと止みました。私が祈りを止めるたびに首は絞められ、祈りを始めると絞めるのは止むのでした。この悪夢に加えて、私は罠にはまったように体をぴくりとも動かすことができませんでした。私は何度も部屋から出ようとしましたが、そのたびに男は私の首を絞めて動けなくしました。そしてそれは一晩中続いたのでした。
その体験があまりにも異様で恐ろしかったので、私はてっきり自分の気が狂ったのだと思いました。「もうおしまいだ。私は完全に気が狂ってしまった」。過度に酒を飲み過ぎて、ピンクの象が壁を行進するのが見えるようになった人たちのことを聞いたことがあり、私もその一人になったのだと思いました。そして、ホテルの大きな鏡で自分の首を見てみると、驚いたことに、首は青あざになっていたのです。あの攻撃は現実であったことを、否定することはできませんでしたが、同時に、受け入れることもできませんでした。
翌日、頭の中でまたあの同じ声が、主の祈りを唱えなさいと言うのが聞こえました。その声は、自分は天使で、神が私を助けるために送ったのだと言いました。私は天使の存在を信じていませんでした。私にとって天使とは、おとぎ話の妖精以上のものではなかったのです。彼は、神が私を愛していて、私からも愛されたいので自分を送ったのだと言いました。私は頭の中で「もし神が存在するなら」とその「妖精」に言いました。「私のような者を愛するはずはないよ!」
私には、神から愛される資格がないと考える立派な理由がありました。神は常に私の考えから最も遠く、何よりも厄介な存在でした。私は1953年11月9日に、イギリス、ロンドンの北に位置するベッドフォードで、イギリス人の父とアイルランド生まれでカトリックの母のもとに生まれました。彼女はしばしばロザリオの祈りを唱え、教会に行き、私に信仰心を持たせようと努めてくれましたが、私は宗教には全く興味がありませんでした。彼女の努力を完全に無視して、それよりも家を離れて遊んだり金を盗んだりするのを楽しみ、母の度重なる心痛のもととなりました。私の家が貧しかったので、玩具や楽しい休暇など、自分が持てないものを持っている他人を恨みました。かなり幼い頃から、私は神の存在を信じていませんでした。おそらく一握りの賢い人たちが集まって、人間がお互いに傷つけ合うことなく生きるためのガイドラインを作り、それをイエスという人の物語としてまとめたのだろうと思っていたのです。
12歳の年には酒を飲み始め、ロンドンのエドモント教会のろうそく献金箱から金を盗んで、裁判所の判事の前に呼び出されました。14歳で、スタンフォード・ヒルのイエズス会の学校の全生徒の中で最低の成績を取り、しまいには盗みで退学させられました。私は、自分が少しでも人から敬意を持って扱われる方法は、父の足跡をたどることしかないと思っていました。父は攻撃的なアル中のギャンブラーで、人は彼を恐れ、不承不承ながらも敬意を持って遇していましたが、それは彼の暴力によるものでした。私は彼の習慣を真似し、常習的に酒を飲みました。酒を飲むといい気分になるし、人生の悪いことはすべて忘れさせてくれました。
私はロンドンの中でも危険な地域に、両親と、4人の兄弟と一緒に住んでいました。十代の頃は暴走族に加わり、非常に荒れた生活を送りました。ほとんどの友人は私と同様、暴漢で泥棒でした。私の親友は誰かを殺し、別の友人は17歳で誰かに殺され、また別の友人は喧嘩で視力を失い、また別の友人は老女を殺しかけました。私の身長は5フィート7インチで、世の中には自分より大きな男が沢山いると知ったので、合気道を習いました。ある人が私を庇ったために、殺人の罪で12年服役したので、自分の身は自分で守るために、一生懸命努力した結果、黒帯4段を達成し、1992年の世界選手権東京大会でオーストラリアチームのキャプテンを務めるまでになりました。私は大変気が短く、武道はそれを、人を傷つけるために役立てる方法を教えてくれました。相手を骨折させ、殴り、蹴り、殺しさえしました。私は妬みの感情を相手にぶつけました。彼らが私の持っていない、金、愛、幸せな家庭を持っているように見えたからです。
18歳で、オーストラリア人である将来の妻に出会った私は、彼女に好かれるために本当の自分を隠しました。彼女は私が大酒飲みであることを知りましたが、依存症であることまでは気づきませんでした。彼女は私を愛し、私たちは結婚しました。ロンドンでの生活は、学歴もなく、商店で働いてギリギリの収入しか得られない私には厳しいものでした。ある日妻は言いました。「オーストラリアに行きましょう。きっとここより楽に暮らせるわ」私は承諾し、私たちは1976年にパースに引っ越しました。
何年か後、私はある製薬会社に、嘘を言ってなんとか職を得ることができました。仕事を続けるために、薬について勉強し、その努力は実って私はそこに10年勤続し、販売部長に昇進しました。それは素晴らしく、また簡単で、たくさんの金を稼ぐことができ、(兄弟殺しの)カインを育てる多くの機会を提供する仕事でした。
オーストラリアでは飲酒は一般的で、私はよく馴染みました。仕事をしていない時は、私の生活は大酒飲みと喧嘩と盗みと詐欺と嘘の繰り返しでした。唯一、殺人だけはしないと信じていましたが、恐ろしいことに何度かその寸前まで行ったことはありました。私は常に、力と金と楽しく過ごすことのためにだけ生きていました。しかし、苦痛が私の夢を引きずり下ろしました。私の楽しみはすべて罪と依存によるものでしたし、それは痛み、傷、孤独、そして空虚の痕跡を引きずっていたからです。
つづく
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